次に、わたくしは、「国民意識」の実態から、戦争抑止が可能か否かを考察しました。
 多くの有識者や言論人や大衆自身も、戦前とは決定的に異なる国民の「戦争反対・平和志向の意識」と、「護憲意識」を理由に、国が戦争に向かうことを容認するはずがないという認識を抱いております。
 この点について、まず考えなければならないのは、「絶対平和主義」意識の衰退の問題です。憲法が謳っているように、国際紛争において、武力による解決を求めないという絶対平和主義の意識は、戦後長く、左翼革新の立場の人々を中心に一定の広がりと根強さを保っていました。しかし、自衛隊の存在が次第に認知されてきたと同時に、その究極の平和志向は、一般国民の支持を得られなくなってきました。
 尤も、自衛隊の存在を容認する立場の人々も、あくまで他国からの侵略を受けた際に、正当防衛の意味合いから、軍事力をもって対抗し、祖国と同胞を守る、ふるさとと家族を守るという観念を抱いているわけで、決して、想定されるような朝鮮半島での紛争のために自衛隊が出動し戦火を交える事態を容認したわけではないでしょう。
 12年前当時の一般国民の意識は、そのあたりにあったと言えます。
 その意味では、日本が戦争に関与する実態を明確に承知すれば、絶対平和主義意識に立つ人々ばかりか、自衛隊による専守防衛を容認する人々の間でも、反戦平和の意志が示される可能性があると考えるべきでしょう。
 実はそこに反戦平和の砦の一つがあったわけです。
 しかし、その国民意識も、事態の認識が遅れるならば、有効な反戦平和の戦いを為すところまでいかないでしょう。それに、専守防衛の戦いの容認は、実際の侵略という事態に対する戦いのみならず、敵国への恐怖心を煽って自国を被害者として位置づけるなどの政治的策略によって、心理的防衛意識に基づく正当防衛論を形成し、想定される日本の軍事行動をも容認するに至る可能性を開いている――当時、わたくしはそのように考察しておりました。実際、1999年の現在、多くの国民が専守防衛の立場から、一歩も二歩も踏み込んで、他国領土内の紛争に日本が軍事的に関与することもやむを得ないと容認する立場へと転換をするに至っております。
 いずれにせよ、絶対平和主義意識の衰退と、専守防衛意識の台頭は、日本においては、戦争抑止の保証とは為り得ないことを示しています。
 次に、「護憲意識」の問題を考えなければならないでしょう。12年前同時、戦後の平和憲法は既に多くの国民の意識に定着していましたし、憲法九条の改正に賛成の人は常に少数派でした。圧倒的多数の国民が現行憲法を支持していました。憲法に対して、当時の国民は、それこそ神聖なもの、金科玉条の絶対的規範というような意識を抱いていたと言っても過言ではないでしょう。「憲法違反」になるような事は、絶対に許すべからざることとして、強い拒否反応を示していました。「憲法違反」という言葉それ自体が、強いインパクトをもって、人々の心に響いていたのです。
 それほどに強い護憲意識ですが、わたくしには、そこにも陥穽を認めないわけにはいきませんでした。
  と言うのも、「護憲」という時、その実体が、現実には変化しているという問題があります。ここでも「解釈改憲」は象徴的です。国民自身がそれまで「違憲」だと認識してはずの実態について、ある時、時の政治状況の中で、自分自身の憲法認識を変更してしまうのです。解釈改憲は、決して政府与党だけの問題ではありません。
 この解釈改憲とは別に、たとえ「違憲」だと心の中で認識しても、明確に対峙するとは限らないという厄介な問題もあります。自衛隊の問題がその例です。一方では、憲法違反という言葉に敏感に反応することも事実なのですが、その事柄を受容できる場合には、その護憲意識も停止状態になってしまうのです。護憲意識が徹底しているのは、左翼的な国民に限るのというのが現実です。その意味で、護憲意識に過度の期待をするわけにはいかないと、12年前の当時、わたくしは考えておりました。
 この護憲意識の問題で、ここで特に指摘しておきたいのは、最近の論調で、現憲法を理想・観念と捉え、状況を現実・実体と捉える中で、改憲論や超憲法論が頻りに叫ばれているという事実です。その主張は、<理想と観念に過ぎない憲法を金科玉条のものとして守り、その結果、国を失い、自らの財産を失い、家族の命を失うのか、それとも、人間が作った規律は人間自身によって変えることができるわけで、現実と実体に即して、勇気ある決断をなし、その結果、国を守り、自らの財産を守り、家族の命を守るのか>というものです。
 これは、大衆受けする主張で、既にこんにち、多くの国民の理解を得つつあるのが実態です。
 

★戦争にはならないのではないか? 戦争はできないのではないか?
 ☆過去とは異なって、戦争抑止のための諸条件が、今の日本には存在するではないか?

 平和国家日本、民主国家日本という観念に依拠できなくなったわたくしですが、それでもわたくしの危惧を客観的に捉え直す様々な要素について、わたくしは考察を続けました。
 まず最初に注目したのは、やはり「憲法」でした。確かに、前述の如く、憲法は、その本来の役割を前向きに果たしてはおりません。平和国家日本という実質を保証するようには、憲法は生かされておりません。
 ただ、ベトナム戦争などにおいて、たとえば自衛隊の参戦というが如き日本政府の暴走を食い止めたのは、やはり他ならぬ憲法の存在が大きかったからだとは言えるでしょう。憲法に即して政治が営まれることはありませんでしたが、政治が憲法に阻まれることはあったと言えると思います。
 そうした<抑止力>としての憲法の役割はまだ生きているという事実から、戦争に突入する事態を、憲法が防止する可能性がありや否やと、わたくしは問うてみました。
 が、<解釈改憲>という事実は、その問いに否定的な回答を与えました。本来の憲法そのものは否定している事態でも、解釈によって、憲法上も可能であると判断されてしまうという事実は、次に、その解釈自体が変更されてしまえば、前回、政府与党でさえ実行できなかった事態が、今度は合憲とされることも有り得ることを意味します。
 <抑止>という形は常に有り得るとしても、実質的な事柄は、たえず変動していく恐れが多分にあります。解釈改憲のもつ陥穽と欺瞞は、そうした点にあるでしょう。解釈はあくまで解釈であるかぎり、主観的な領域の為すことであり、首相や閣僚など政府与党の主体が変われば、主観的な営みによって、憲法解釈もまた変わり、抑止となる事態そのものも、変動してしまうことになります。実際、政府与党は、解釈改憲によって、憲法の禁止事項をその都度変えてきたわけです。 従って、ベトナム戦争当時、政府与党でさえ、憲法に抵触するという理由で断念した政策が、今後とも同様の措置を取り続けられる保証は全くないことになります。
 反戦平和の立場、左翼革新の立場の人々にとっては、その本来の意味合いから、憲法が戦争抑止・戦争防止の決め手であると認識し得るわけですが、憲法が扱われている現実をみれば、その願いは決して確固として保証されたものではない、とわたくしは認識せざるを得ません。


Selected Entry

ペンションメルヘン

八ヶ岳 B&B・ペットOK ペンションメルヘン

Calendar

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< September 2020 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Comment

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM