富士山

 1987年、今から29年前に、私は自著の中で、「日本が再び、戦争できる国へと歩み始めた。しかし、それを防ぐべき<砦>は既に崩壊している」と警鐘を鳴らし、当時の政治家や学者、評論家、ジャーナリスト、そして文化人たちの多くに、危機感を抱き、平和と民主主義を守るために立ち上がり、行動を起こすことを求めたが、その殆どが、「杞憂に過ぎない」と、私の切実な訴えを退けた。

 そして、今、アメリカが引き起こす戦争に軍事的に関与する、圧倒的多数の憲法学者が違憲としている「集団的自衛権容認=安保体制」が、<積極的平和主義>の名のもとに閣議決定され、またその法体系として、時の権力者の胸三寸で、反戦平和と反ファシズムの声をあげる人々を弾圧でき得る、戦前の治安維持法の如き「秘密保護法」が強行採決され、さらに、事実上の戒厳令とも言って過言ではない、一人の、或いはごく少数の権力者たちが憲法の上に立って、国と国民の運命を決める権限を掌握する「緊急事態条項」が発議されようとし、声高に「改憲」が叫ばれるに至っている−−−。

 そのような状況下での平和と民主主義を死守すべき言論とは如何にあるべきか。
 
 結局、私は、これも持論である「異論反論との対話」という位相で、人々に、根気よく語り尽くすほかないと考える。
 その意味では、現政権に反対、ないし批判的な立場を取る人達の多くが、未だに、<砦>の崩壊を直視できずに、「憲法9条守れ」「平和と民主主義を守れ」を、絶対的な国民的コンセンサスであるとの錯覚ないし幻想を抱いたまま語り叫ぶ、それこそ「戦後レジーム」の位相に閉塞した状態を超克しなければならぬと、考えるのである。

 私たち憲法9条を守り、平和と民主主義を守ることを願う者は、崩れた神話を語るのではなく、神話の外の世界に出てしまった人たち、今正に出かかっている人たちに届く言葉と論理を、生み出さなければならぬ。

 私たちは、今、なぜ戦争をしてはならぬのか、なぜ人を殺してはいけないのか、なぜ個の尊厳や人権を奪ってはいけないのかなどについて、それを自明の理として主張するのではなく、真逆な主張をする敵対的な確信犯と不毛な論争に時間を費やすのは無意味だとしても、時代の空気を醸成しつつあるより広範な人々の異論反論に対しては、真摯に、そしてゼロの地点から語り始めることが必要なのではないか。
 状況の危機は、最早、そこまで深まっていると、私は認識する。

 しかし、それでもなお未だ絶望を語る時ではあるまい。滅びの美学を語る敗北主義に陥ることは禁じなければならないと、私は思う。
 −−−確かに、時間は、希望を抱かしめる新しい芽を育ててもいるのだ。
 朽ち果てようとしている根元から、生命感あふれる新芽が顔を出し、新しいしなやかな枝を伸ばし、そして新しく逞しい幹を生まんとしている。
 この新芽が、時代の閉塞を打ち破る<砦>の構築を成就するのではないか−−−私は、そういう希望を抱いてもいる。少なくとも、私は、その新芽と共に生きたいと切に願い、祈る。


 


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