次に、「敵意と憎悪」の問題に考察を進めましょう。
 国家と民族が戦争に突入する際に、主観的位相において大きな原因となるものに、偏見にもとづく敵意と憎悪があることは現在のユーゴをみても明らかです。過去においては、ユダヤ民族に対するヒットラー・ナチスの偏見にもとづく敵意と憎悪がありました。そして、天皇制軍国主義の大日本帝国における中国人や朝鮮人に対する偏見にもとづく敵意と憎悪もそれを証すものでした。
 そのかつて多くの日本人の精神を支配していた偏見にもとづく敵意と憎悪という悪しき意識感情は、こんにちも状況次第では、一挙に吹き出す恐れがあることを、日本人として非常に残念ですが、率直に、認めなければなりません。
 実際、現在も、何か北朝鮮が問題を引き起こすと、それに対する責任を取りようもない在日の朝鮮人学校に通う女子高生が、チョゴリ服を切られたり、髪の毛を引っ張られたりと、迫害を受けるのです。
 勿論、こういう野蛮な行為をする日本人は、決して多数派ではないでしょう。圧倒的多数の日本人は、そのような暴挙をしません。どの時代、どの社会においても、そうした狂信的な人物の存在はあるものです。その意味では、そういう例外的な人物の存在をもって、国民世論の厭戦感情が萎えることを危惧するのは論理の飛躍と考えられるかもしれません。
 しかし、迫害を受ける女子高生を助ける日本人がほとんどいないという事実を考えると、偏見にもとづく敵意と憎悪に狂う人物の存在自体は例外的であったとしても、一つの実態を作り出すことにおいては、その例外的存在が支配力を握っている現実は直視すべきでしょう。
 それに、そうした偏見にもとづく敵意と憎悪を個人的な次元で露わにするのは例外的だとしても、北朝鮮に対しては多くの国民が敵意と憎悪を抱き、その結果強硬手段に訴えることを求めるという状況は、決して例外的な話ではありません。
 尤も、12年前当時は、まだ敵意と憎悪は深刻ではありませんでしたが、わたくしは、いずれこの問題が発生することになるのではないか、と憂えておりました。

この主観的位相もやはり二つの観点でみる必要があります。
 一つは、意識感情それ自身に内在する問題です。
 日本の現代の国民自身に内在する意識について、わたくしの考察を進めていきましょう。
 最初に指摘したいのは、「既得権の擁護」という問題です。
 湾岸戦争の際、日本が130億ドルもの大金を拠出した背景には、アメリカとの友好関係維持という目的の他に、日本自身の主観的な思惑もあったとみられます。「中近東の原油を確保するためには、それなりの代償を払うのもやむを得ない」という観念が、当時、多くの国民の反戦意識・厭戦意識を萎えさせました。
 確かに、日本にとって原油の確保はまさにライフラインです。しかし、当時、その消費量が、国民総人口比で言えば、極端に世界的水準を上回っている実態に目を向ければ、わたしたち日本の社会構造や生活形態の在り方について、根本から問い直すべき機会であったとも言えます。戦争に関与することをあくまでも阻止したいとの固い決意があれば、必ずやそうしたでありましょう。現代日本人の大多数は、しかし、反戦平和よりも、既得権の確保を選択しました。
 ここでわたくしが問題にしている北朝鮮との戦争においても、アジアにおける経済大国としての地位や経済利益などの既得権益を守るという、それ自体が北朝鮮との軋轢において、客観的に妥当性のある問題か否かはともかく、日本人の主観ではそのような観念を抱くことは大いに有り得ることです。どこの国、どこの民族も、既得権益については、頑なな態度を取りがちですが、とりわけ、政治的な位相において、反省することの極めて少ない日本と日本人の場合、それはさらに深刻であると言わざるを得ません。

 次に、「大国意識・覇権主義」の問題です。
 これはバブル崩壊後の極度の経済不況で、多くの日本人が自信喪失に陥っていることから、最近では顕著ではなくなってきていますが、12年前当時は、際立って広くみられたものでした。西欧諸国、とりわけイギリスに対しては斜陽の国と嘲笑さえしていたのです。今や経済的にはアメリカにも匹敵するほどの国力をつけ、ポストアメリカの一番手であると自負していたものです。その結果、大国にふさわしい国際社会での地位と求め、その代償として大国の責任を担うべきであるとの主張が声高に叫ばれました。その場合客観的には、大国の責任の取り方は、いろいろあってよいと思うのですが――日本の場合は、平和憲法に即して過去に例のないリーダーシップを果たす道が本来の歩むべき道のはずですが――、実際にけたたましく叫ばれていたのは、国際紛争にも軍事的に積極的に介入する大国、つまりアメリカのような大国を志向することでした。当時このような大国意識に多くの日本人が酔っていたのです。

 次に、今の大国意識にも関連しますが、「過剰な愛国心」の問題があります。
 戦後長い間、この「愛国心」という言葉は、日陰者の立場に置かれていました。戦前・戦中に盛んに鼓舞されたことや、戦後も、天皇制軍国主義の植民地支配と侵略戦争に対して率直な反省を欠いた勢力によって、その必要が説かれたこともあって、愛国心は、偏狭な国粋主義を意味するもの、戦争につながるものとして、主に戦後左翼革新の強い抵抗にあってきました。
 が実は、愛国心は、その一方で、国民ひとりひとりの自己確認と連帯意識の確認と、他国他民族の不正義から祖国とわが家族と同胞を守るという正当な働きをも持っているわけですが、その点を、戦後左翼革新は直視してこなかったために、こんにち、日の丸・君が代問題での敗北を余儀なくされる結果をもたらしてしまったわけです。
 その意味で、愛国心を直ちに不正義とみなす戦後理念から一度自由になる必要はあるでしょうが、しかし、同時に、それでもなお、愛国心が鼓舞されることに対しては、大いに警戒しなければならないというのも、実態を的確に認識した姿勢だと言えましょう。
 実際、「南京大虐殺」の事実を認めない国会議員が国民的人気を博したり、自国の罪悪を指摘しその反省を求めることを「民族の誇りと名誉を傷つける自虐史観だ」と非難したり、日本の侵略と植民地支配によって多大な犠牲をもたらした国とその民衆に謝罪と賠償を果たすべきだと言えば、「外交は自国の利益のためにある。自国に不利益をもたらすとは、愛国心があるのか」と非難する、といった実態が12年前当時から顕著でした。
 わたくしが思うに、歴史的な過ちを率直に認め、誠意をもって謝罪と賠償を尽くし、日本と日本人が自らの過ちを認める勇気をもち、謝罪する真心をもち、賠償する責任感をもつことを証すことこそ、世界の、日本に対する評価と信頼を取り戻す唯一の道であり、そして、それこそ真の愛国心の証だと確信するのですが、現実は、そういう認識が国民的コンセンサスを形成して事態を動かすというような事には至らず、年々、保守反動の声が大きくなりかつ広がりをみせております。
 次に「過剰な恐怖感・不安感」を考察しましょう。
 1994年のルワンダの大虐殺も、近隣諸国に避難していたツチ族の侵攻を恐れたフツ族の「殺される前に殺せ」という観念によって引き起こされたといいます。敵に対する恐怖感と不安感が極限に達した結果、逆に過激な攻撃的感情が募ってしまうということは、人間心理として屡々みられることでしょう。
 日本人もまた、極度の弱者の心情と強者の心情が複雑に同居している民族ですし、コンプレックスを抱え込むことにも弱い民族ですから、北朝鮮に対する恐怖感や不安感が増長されることは大変に危険な現象だと思われます。
 12年前当時は、まだ共産主義一般に対する恐怖感や不安感の存在が認められる程度で、特に北朝鮮に対してどうのこうのではありませんでしたが、やがては、過去の歴史への負い目も重なって、北朝鮮・朝鮮民族に対する恐怖感や不安感が著しく増大し、日本人の理性が苛まれることを、わたくしは危惧致しておりました。そしてこんにち、それは危惧したとおり、極限に向かいつつあります。
 


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